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千利休の故郷・堺を訪ねて:侘茶と刀装具に宿る美学

肥後金工の歪んだ形を美しいとする美意識は、利休高弟七哲と知られる細川三斎が、利休から受け継いだ侘茶の文化から影響されたものです。茶道は教養の一つで、その時代の文化を象徴していました。そんなことから、私の中で、宗易(利休)が禅や茶と出会ったところ、宗易の故郷を訪ねてみたいという気持ちになり、大阪堺に行って来ました。そして、北野天満宮にも足を伸ばしてみました。本日は、千利休ゆかりの地、大阪堺から、利休の美学に迫ります。



千利休


利休は、堺の大商家に幼名田中与四郎として、大永2年(1522)に生まれ、天正19年(1591)4月21日に69歳で没しています。侘茶の大成者は、法名を宗易、斎号を禅語由来の抛筌斎と称し、晩年に、正親町天皇から利休居士号を賜ります。利休は早くから、禅の修行を大阪堺にある南宗寺で始めました。そして17歳の時には、すでに北向道陳から茶を習い、室町時代に村田珠光が始めた「侘茶」の精神をさらに深めた武野紹鷗に弟子入りしています。そして、織田信長や豊臣秀吉の心を掴み、茶頭として仕え、さまざまな茶会の開催に尽力したことは良く知られています。しかし、そんな利休の禅の精神と融合した茶の湯が、刀装具にも影響していることは、一般的にあまり知られていないかもしれません。



利休屋敷跡
利休屋敷跡


利休の禅と茶道:龍興山 南宗寺


南宗寺は大永6年(1526)京都大徳寺の住職古嶽宗亘が、堺の一小院を南宗庵と改称したのが始まりと言われています。後に、三好長慶が父元長の菩提を弔うために、弘治3年(1557)南宗庵を移転し、大林宗套を開山として創建、南宗寺としたそうです。堺の町は、三好一族によって繁栄していました。偶然にも、長慶と利休は同じ歳です。三階菱に釘抜は、三好一族の紋で、室町時代の透鐔に良く見られる図です。それは、戦国時代初の天下人である長慶を敬う意匠だったのかもしれません。三好一族の墓が、南宗寺にあります。



南宗寺
南宗寺

三好元長・長慶・義賢・十河一存の墓
三好元長・長慶・義賢・十河一存の墓

村田珠光は大徳寺の一休宗純和尚から禅を学び、武野紹鷗と利休は、この南宗寺で、修行をしました。利休は「術は紹鷗、道は珠光」よりと説いていて、「茶禅一味」の精神はここで確立されたのでしょう。境内には、利休好みの茶室「実相庵」や、利休遺愛の向泉寺伝来手水鉢などがあります。実相庵にも、刀を預け、身分を問わず頭を下げて膝をついて、にじって入ることで、俗世の立場を離れ、平等な空間に入るとされる躙口があり、その外には、刀を置くところがあります。これこそが、「置式刀掛」の発祥となった茶室の刀掛です。



実相庵
実相庵
向泉寺伝来 袈裟形手水鉢
向泉寺伝来 袈裟形手水鉢

武野紹鷗の供養塔
武野紹鷗の供養塔

千家一門の供養塔
千家一門の供養塔

さかい待庵と無一庵


大阪堺にある「さかい利晶の杜」に、国宝待庵の祖形を復元した「さかい待庵」と「無一庵」の便宜的な復元があります。無一案は豊臣秀吉が天正15年(1587)10月1日北野天満宮で開催した北野大茶湯のために、利休が作ったとされる四畳半の茶室です。この茶室の詳細な寸法が「細川三斎茶書」などに記載されているそうで、三斎と利休がとても近い関係であったことも理解できます。

 

京都の北野天満宮を訪れると、利休だけが使っていたとされる「星梅」の紋が目に留まりました。梅は北野天満宮の御祭神である菅原道真公が好んだ花で、御神縁深き愛木として親しまれています。もしかしたら、利休が、この星梅紋を使うようになったのは、北野大茶湯がきっかけになったのかもしれません。



北野天満宮
北野天満宮
北野天満宮のお守り
北野天満宮のお守り
無一庵
無一庵(復元)


亭主の出入りする茶道口は、特徴的な形で「袴腰形」と名付けられています。とても興味深いことに、肥後の頭も「袴腰形」と呼ばれる形があり、「肥後金工録」に紹介されています。



無一庵 茶頭の出入り口
無一庵 茶頭の出入り口: 「袴腰形」(復元)

頭の袴腰形 出典:肥後金工録
頭の袴腰形 出典:肥後金工録


利休の美学


無一庵には、一部、壁で隠れている楊枝柱があります。肥後金工の鐔で、耳に模様を彫刻した後、消し込み象嵌が施されているものがありますが、彫刻した部分に完璧に象嵌するのではなく、象嵌していないところをわざと残すことがあります。それは、まさに、侘びを美しいとする利休の美的感覚と同じで、私にとってはしっくりきた納得の感覚でした。



無一庵 楊枝柱
無一庵 楊枝柱

細川三斎が京都の寺町通りの小店で買った鮫鞘を、何か美しい拵をまとめようと、利休に見せて相談して出来たのが「信長拵」という話が、「細川五代年譜」で紹介されています。細川三斎と利休は40歳の年の差がありますが、三斎は武将であり、古今伝授を相伝していた細川幽斎の息子で、幼少から文化や芸術への素養があったことから、利休の侘びの美学を理解できたに違いありません。利休自身も、本阿弥光徳に、こぶや藤四郎の蠟塗合口腰刀拵を依頼して、拵を作っています。真黒の鞘に品の良い赤銅枝梅の目貫がついている渋い拵です。



こぶや藤四郎の蠟塗合口腰刀拵 出典:日本刀大鑑
こぶや藤四郎の蠟塗合口腰刀拵 出典:日本刀大鑑

そんな利休の美学を形にして、道具の制作を担った家々が、千家十職です。なかでも、駒沢家は指物師として、利休好みの刀掛を制作しています。



桐糸巻刀掛
桐糸巻刀掛


父が2023年に出版した「刀掛」の本に「桐糸巻刀掛」が掲載されています。このような置く形式の刀掛は、上杉謙信像にも描かれており、古くから存在していたと思われます。その訳も、茶室の躙口に近い場所に設置された刀掛から理解ができます。この桐糸巻刀掛ついて、「駒沢利斎の印銘があり、外箱には「原叟好」とあり、八代将軍吉宗に仕えた表千家六代の覚々斎の好みであること。しかし、この形は利休が考案して作らせたとも言われている。」と書かれています。



桐糸巻刀掛と肥後拵



結びに


千利休の美学の原点は、生涯の大半を過ごした堺にありました。利休の質素で不完全なもの、簡素な中にこそ澄みきった、清らかな美しさや、心の豊かさを見出すという侘茶の精神は、刀装具にも色濃く影響を与えました。禅と茶道は、武家の教養でもあり、その時代の文化や芸術の流行を築きました。


次回は「信長拵とは?」をお届けします。Until then Stay tosogu & sword minded : )




参考:



肥後金工録 長屋重名

龍興山 南宗寺パンフレット

さかい利晶の杜

小堀遠州流茶道

表千家 若き日の利休

関西・大阪21世紀協会

北野天満宮



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