肥後金工の魅力③ 西垣家―浪華小道具研究会でのレクチャーより
- gallery陽々youyou

- 2025年12月29日
- 読了時間: 7分
大阪の浪華小道具研究会にて、伊藤満による肥後金工をテーマとしたレクチャーが生國魂神社で行われました。今回のブログは①平田家 ②志水に続き、「肥後金工の魅力シリーズ③―西垣」です。西垣に絞ってわかりやすくご紹介します。
肥後四主流の美意識や特徴をシリーズ①平田・②志水・③西垣・④林・神吉という流れで、各作家の特徴に迫りたいと思います。4日間お届けします。④の最終章に、レクレチャーで行われた鐔のプチ入札鑑定を用意しています。ぜひゲーム感覚でトライしてみてください♡

肥後金工の魅力
肥後の四主流は個性的です。師弟の関係であったり、同じ地方であったりすると、結果的に作風が似てしまうことがありますが、肥後金工の作品は、芸術的で、それぞれにスタイルがあり、個性豊かなものを残しています。その芸術には、武家文化の哲学があり、精緻なものから、モダンアートのようなアブストラクトな作風まで幅広くあります。肥後金工の各書籍で紹介されていますが、神吉家、志水家、平田家、細川家や松井家などに残された文書から各流派の歴史が比較的はっきりしています。嬉しいことに、肥後金工の作品は数が多く、蒐集に適しています。金具や拵まで楽しめる幅が広いところも魅力的です。
西垣家
「西垣家について、幸いなことに五代勘左衛門の先祖附や、八代目の四郎作翁が残された「肥後国鐔工人名調」などがあり比較的に明瞭であるが、それらの文書の全てが現在は行方不明である。幸運にも、大正8年(1919)の「鐔の会」誌や、昭和39年(1964)の「肥後金工大艦」に重要な箇所は抜粋され詳しく紹介されている。」と伊藤満著書の『西垣』に書かれています。私は、現存する西垣勘四郎、二代勘四郎永久、三代勘四郎仁藏や二代の弟西垣勘平の作品から、その人となりを想像することが好きです。そして、誰に影響を受けていたのか?彼らの生きた時代に、どんな作家が活躍していて、文化の流行はどうだったのか?どこで作品を作っていたのだろうか?と探求することも楽しみの一つだと思います。
初代西垣勘四郎と、志水仁兵衛は、平田彦三の門人です。勘四郎は、彦三の甥でもある志水仁兵衛が住み続けて金工の仕事をした、熊本県八代市袋町 (前回のブログ「肥後金工の魅力②志水家」でご紹介したところ)で、細川三斎が没した直後まで、製作していました。その後、勘四郎が熊本に移住したのは、「肥後国鐔工人名調」に「三斎公逝去後」とあることから、正保2年(1645)だそうで、勘四郎が32歳の時です。西垣家が熊本で製作していたところは、熊本城のお堀の右側だと、父が『西垣』の研究で熊本を訪れた際に、地元の研究者から教えていただいたそうです。今年の3月「武蔵を訪ねて」という友達の企画で、肥後金工の四主流が仕事をしていた場所だったところも訪ねました。現在、西垣が製作していた場所周辺は、すっかり繁華街になっていました。


初代 西垣勘四郎
丹後国二俣村の神宮の弟で、吉弘と名乗り、慶長18年(1613)生まれ、元禄6年(1693) 81歳で没します。細川家の豊前小倉時代に平田彦三の門人になります。寛永9年(1632)に細川家が肥後に入国した年は、19歳でした。その後、彦三と肥後八代に住みます。寛永12年(1635)彦三が没した時、勘四郎は22歳でした。三斎が没した後、熊本に移り、細川家から十二人扶持を支給されます。作品はすべて無銘です。作風は自由度が高く、鉄には焼き手を加え、林家のように整った作品はありません。櫃穴もすべて左右がアンバランスで、毛彫や象嵌も即興的に施されています。波の図には毛彫がなく泥波と言われています。素材は鉄の他に真鍮、赤銅、黒四分一や素銅があります。縁頭の作者としても名高く名作が多く残っています。
二代 西垣勘四郎 永久
吉當や永久と名乗り、寛永16年(1639)生まれ、享保2年(1717)に享年79歳で没しています。後藤顕乗の門に入り11年修行して伝書を得ています。『西垣』には、幼少の頃から優秀だった二代勘四郎が、細川綱利の参勤交代について江戸に上り、顕乗の門人になった時、14歳か16歳だったということが、村上孝介氏がまとめた「細川五代年譜と刀剣」から拾える、綱利の参勤交代時期と、当時のその制度によって計算できるということが書かれています。それによると、綱利が江戸へ上った時期は承応2年(1653)か明暦元年(1655)で、当時の元服と金工としての入門を考えると、14歳か16歳は妥当な年齢です。しかし、承応2年に顕乗はすでに、68歳で高齢であったのと、長男の程乗は加賀の前田家に出向いていたので、実際の指導は、顕乗の養子で次男の寛乗(光永)や、殷乗、仙乗によってされたのだろうと書かれています。そこで、後藤のあらゆる技術、高彫、据文、色絵、魚子、毛彫、小柄笄の形から哺み、削継までひと通りを10年間の修行で会得したに違いありません。金工の名前は、自分の名乗りの一文字を弟子に与えるのが一般的です。二代勘四郎の「永久」という銘は、寛乗が「光永」とも名乗っていることから、「永」は八郎兵衛家を起こした寛乗光永の名からを貰ったと考えられます。その「永」は二代勘四郎の門人であった三代志水甚吾永次にも受け継がれています。
二代勘四郎は、熊本に住みました。西垣勘四郎永久銘の鐔が3点存在します。作風は西垣初代の伝統を受け継いだものと、後藤家の門人らしい端正な作品が存在します。鉄鐔は焼き手をかけず磨地のものがほとんどです。金の布目象嵌は林又七を彷彿とさせると「肥後金工録」にあります。波の図には、後藤家のような毛彫があり、波の1つ単位に波頭が3つある箇所を作っているのが特徴です。素材は鉄の他に真鍮、赤銅、黒四分一や素銅があります。西垣のなかで、最も金工としての技術が高いのは、永久です。
後藤寛乗光永の小柄と合わせて紹介します。寛乗は八郎兵衛家の初代で、その五代は幕末の名工後藤一乗です。



西垣勘四郎 仁藏
吉教や良教とも名乗っており、前名は仁藏です。二代勘四郎永久の41歳の時の子で、延宝8年(1680)生まれています。仁藏は宝暦11年3月に享年82歳で没しているので、製作期間は長く、多くの作品が残されているはずですが、個性のはっきりわかる作品はとても少ないです。西垣仁藏銘の鐔と縁が残されています。作風は二代のスケール感を小さくしたイメージです。真鍮地波図鐔が得意らしく数点残されています。鐔はやや小ぶりのものが多くあります。
四代以降は勘四郎とは名乗っていません。作品の詳細も不明です。

西垣勘平
勘平は、西垣二代永久の弟です。網屋版の「肥後金工録」には、「銘は西垣勘平作又は勘平作と切る。晩年には銘を切るもの多し。」と追記されているそうです。そして、八代目の西垣四郎作翁は、「肥後国鐔工人名調」に「透鐔に在銘物多し、肥後国高麗門の別家」と記されていることが、『西垣』に書かれています。兄永久と同時代に活動しており、別家ということで、本家と区別をするために、銘を入れたとも考えられます。勘平は銘を裏側に切ることが、重要な鑑定のポイントでもあります。


結びに
難波小道具研究会でのレクチャーは「肥後金工の魅力」を伊藤満が一気に解説していましたが、ブログでは、肥後四主流を一つずつ解釈して、お伝えしたいと思います。今回は「西垣家」をご紹介しました。細川三斎から直接指導を受けた唯一の金工平田彦三の門人の西垣勘四郎を初代とする西垣家は七代目まで刀装具を製作していました。千利休の弟子であった三斎が彦三に伝承した「一期一会」は、勘四郎にも感じられます。二代勘四郎に至っては、暖かみのあるなかに、どこかしら、後藤家の作風を思わせる、格調高い、優美な作品を生み出しました。西垣の、何にもとらわれない自由な発想と柔らかな作風は、私たちの心に訴えかける魅力があります。次回は「肥後金工の魅力シリーズ④―林・神吉家」をお届けします。Until then Stay tosogu & sword minded : )
参考:
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