三斎と利休の美意識が生んだ「信長拵」
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- 2月13日
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更新日:2月14日
利休の茶禅一味の精神は、侘茶の美学となり、その時代の文化を象徴しました。利休の美意識を誰よりも理解できたのは、利休高弟七哲で知られる細川三斎です。古今伝授を相伝していた細川幽斎の息子であり、幼少から文化や芸術への素養があったことで知られています。そして、誰よりも利休との深い親交を大切にした人だと感じます。本日は、三斎と利休の美意識が生んだ「信長拵」の魅力に迫ります。
数奇者が生んだ「信長拵」
肥後拵の元になったものには、細川三斎が考案して、天正時代に京都で作られた歌仙拵と信長拵があります。歌仙拵は、永青文庫美術館の所蔵品で現存していますが、残念ながら、信長拵は戦後、行方不明になっています。昭和9年3月に刊行された片岡素川氏の「肥後刀装録」に唯一写真が掲載されており、「細川三斎公遺愛刀之由緒」として、信長拵製作の経緯が詳しく記されています。そして、村上孝介氏によって紹介された、「細川五代年譜と刀剣」を照らし合わせて、考えると、三斎と利休の数奇者二人が、どんな言葉を交わしていたのか想像することができ、楽しい気持ちになります。
この信長拵は織田信長とは関係がなく、刀身が室町中期の加賀に住んでいた浅古当麻の刀鍛冶「信長」であることから、この名称になりました。


「細川五代年譜と刀剣」に三斎が信長拵を作る経緯や工程が書かれていましたので、現代文にして、紹介します。
「拵を整えるにあたり、研ぎは竹屋に命じ、金具は田村に作らせた。下鎺は渋くせずに銀色とし、鎺についても、同じものを20個作らせてそのうちの1個を選び、他は捨てさせた。柄の縁は唐皮で包んで保管してあったが、長い間に所々に傷みが見られたため、修理を施した。柄の鮫は、当時黄金一枚で求めたもので、これを用いたところ、「小国の主でありながら分不相応にあでやかに見える」と人々の噂にのぼるほどであった。その柄の鮫をよく見ると鮫の親粒の整いぶりが、九曜紋を思わせることから、世間では「越中殿の九曜鮫」と呼ばれていた。目貫と笄は祐乗の作による蛸の彫物が施されたものである。鐔は鉄の大透かしで外周に象嵌があり、この鐔に似たものを、細川家中では「信長透」と呼んでいた。
鞘についても、様々に吟味を重ね、心を尽くして拵に仕立てたものであった。
これを千利休に見せたところ、「この取り合わせは数寄の目から見てもすべてに整っていて申し分ない」と感心された。
すると利休は、「私もこれに似た鞘を以前から求め、手元に置いていので、お目にかけよう。」と言い、実際に取り出して比べてみたが、栗形、返角、鞘の肉置きに至るまで全く同じだった。それは、寺町通りの小さな店に吊るされていたもので、あまりにも出来の良い古鞘だと思ったので、利休が求めたとのことであった。
このことから、三斎は、どんなことについても利休の美意識は、すばらしいと感じ、利休もまた同様に思ったので、互いに称賛した。」と書かれています。

この文章から、三斎は完成した信長拵を利休に見せに行くと、利休はその拵を褒め、そして、実は自分も似たような古鞘を寺町の小店にぶら下がっていたものを購入したので、三斎に見せようと思っていたところだったと、利休は奥から、その鞘を持ってきました。二人は互いの鞘をじっくり比べてみると、驚くことに、栗形、返角の位置、鞘の肉置きまで、そっくりだったのです。前回のブログで、「細川三斎が京都の寺町通りの小店で買った鮫鞘を・・・」と書きましたが、それは誤りで、寺町で鞘を見つけて買ったのは、利休でした。
では、三斎はどこで「鞘」を求めたのだろうか?と考えながら、「細川五代年譜と刀剣」の、少し先を読むと、忠興(三斎)が日頃から拵に相当に関心があったらしく、「本阿弥行状記」にも、「光徳が町で買い求めていた鞘を、三斎公が所望されたので譲った。」という記述があることを村上氏が書き残していました。信長の刀の拵を作るために、普段から心を配っていたことがわかります。もしかしたら、このときに光徳から購入した鞘が信長拵に使われたかもしれませんね。
本阿弥光徳は、利休や三斎のような影響力と高い地位を持つ人物から用命を受け、拵を仕立てることも請け負っていたことがわかります。まだ利休が存命であり、侘茶の美学が、その時代を象徴していた頃、光徳の4歳年下の従兄弟である光悦も活動していました。三斎が一番年少で、その5歳上に光悦、9歳上に光徳がいた、数奇者揃いの豊かな時代であったことも想像がつきます。
唯一現存する信長拵の原寸絵図
肥後刀装録に、「細川三斎公遺愛刀之由緒」として信長拵に使われた刀装具の詳細が記されています。それは、昭和6年10月中旬に熊本勧業館で肥後刀剣会が主催した内覧会で、展示された時の記録です。その一部を現代文にして紹介します。この時に、信長拵の原寸絵図も描かれました。
「信長拵刀 銘:信長 (加州住) 時代:応永頃 長さ:2尺0寸8部
頭には、四分一の波毛彫に山路の深彫を入れ、縁は樋形を小豆革包にし、鐔は鉄の古正阿弥の海鼠透に銀の雷文繋ぎの耳象嵌、目貫及び笄は赤銅繋ぎ蛸の図である。小柄に至っては、その取り合わせに思い悩み、これを利休居士に相談し、銀の無地丸張を用いることとした。柄は燻革を用いて巻き、鞘は柳鮫の黒塗研出を用いて、鐺は鉄の泥摺、下緒は法橋茶の畝打にして、その高尚さは、まさに茶道の奥深い趣から生まれたものであり、後世これを模倣した拵は、肥後をはじめ、遠く江戸にまで広がった。」という内容のことが書かれています。

信長拵原寸絵図は、とても貴重な資料です。巻物になっていて、広げると、拵に使われた全ての部分の寸法などが、事細かく書かれています。2027年刊行予定の「肥後拵」に、この、信長拵、希主座拵や彫抜盛光拵の図面も実寸サイズで掲載予定ですので、ご期待ください。


この打刀拵は、江戸前期に肥後で作られた信長様式の拵です。細川家では、代々の当主が「信長拵」や「歌仙拵」を模造させたと言われています。

結びに
三斎は、質素で不完全のもの、簡素のうちにこそ澄みきった清らかな美と心の豊かさを見出すという侘茶の精神を、七哲の誰よりも深く理解していました。偶然にも、利休もまた信長拵の鞘と瓜二つの鞘を寺町で見つけていたことを思えば、まさに以心伝心というほかありません。信長拵は、三斎と利休という二人の審美眼によって生まれた拵です。いつの日か、その姿に会えることを願うばかりです。
次回は「鉢木図鐔の由来はどこに?」をお届けします。Until then, stay tosogu & sword minded ♡
参考:
肥後刀装録 片岡素川
細川五代年譜と刀剣 村上孝介
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