肥後金工の魅力④-1 林家 ― 浪華小道具研究会でのレクチャーより
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- 1月10日
- 読了時間: 7分
大阪の浪華小道具研究会にて、伊藤満による肥後金工をテーマとしたレクチャーが生國魂神社で行われました。今回のブログは①平田家 ②志水 ③西垣に続き、「肥後金工の魅力シリーズ④-1―林家」です。
肥後四主流の美意識や特徴をシリーズ①平田・②志水・③西垣・④林・神吉という流れで、各作家の特徴に迫るブログシリーズです。④林・神吉では、情報量が多すぎてしまうので、④-1は林家、④-2は神吉家としてお届けします。④-2:神吉家の最終章に、鐔のプチ入札鑑定を3点掲載しますので、ぜひゲーム感覚で、トライしてみてください♡
肥後金工の魅力
肥後金工の作品に出会った経緯は、みなさん、それぞれ違うと思います。何も知らずに、何となく雰囲気が良いから、手にしていたということもあるかもしれません。とにかく、肥後の四主流は個性的です。
・師弟の関係であったり、同じ地方であったりすると、結果的に作風が似てしまうことがありますが、肥後金工の作品は、芸術的で、それぞれにスタイルがあり、個性豊かなものを残しています。
・武家文化の哲学があり、精緻なものから、モダンアートのようなアブストラクトな作風まで幅広くあります。
・神吉家、志水家、平田家、細川家や松井家などに残された文書から各流派の歴史が比較的はっきりしています。
・嬉しいことに、肥後金工の作品は数が多く、蒐集に適しています。
・金具や拵まで楽しめる幅が広いところも魅力的です。

林家
父が『林・神吉』を2008年に出版してから、18年が経ちました。その間に、平田彦三の子孫の方から貴重な資料を提供していただいたのと、2018年に稲葉継陽氏によって出版された「細川忠利」から「当時の忠利と三斎は没交渉であった。」ということから、「林又七は三斎から指導を受ける状況ではなかったのではないか。」など、父の肥後金工の研究は、発展しているように思います。
林と神吉家は、平田彦三を祖とする、平田・西垣・志水家と少し離して考えると、作風、鉄味や歴史的背景などから腑に落ちるのではないかと思います。『林・神吉』の6頁〜7頁をご覧いただくと、林家の系図が整理して書かれています。それには、林又七の父・清兵衛と兄・八助重勝は鉄砲鍛冶であったことがわかります。「清兵衛友重(のちに勝光)は、加藤清正公に仕えて、知行300石、肥後国飽田郡春日村に住む。鉄砲師であり鐔工を兼ねたとのこと」などが大正8年(1919)に書かれた「鐔の会」誌に紹介されているそうです。林家は、加藤家の工人であったため、細川忠利が寛永9年(1623)に初代肥後熊本藩主として入国した時、又七は大木家に寄宿していた浪人でした。おそらく父と兄も同じく大木家に居たのでしょう。その後、忠利に抱えられてからは、林家は横手村に住んだものと思われます。二友図鐔に「横手又七」の銘を残していることから、想像できます。その後、鐔工として独立してからは隣の春日村で製作していたと考えられます。
現在、春日村は熊本市西区春日となり、横手は西区と中央区に別れ、いずれにしても隣町です。横手には、平田家の墓がある吉祥寺や、細川忠利の墓所の一つであった妙解寺跡(現在枯山水園)がありました。その距離は、徒歩400m(6分)ほどです。


初代 林又七
又七は、慶長18年(1613)に生まれ、重治や重吉と名乗り、元禄12(1699)に87歳で没しています。細川家に二十人扶持で抱えられています。肥後四主流の一人である初代西垣勘四郎と同じ年で、製作年代は桃山の気風が残る寛永末年(1635)から没する元禄12年(1699)と考えられていますが、作風は全く違います。在銘の鉄砲があることが、とても興味深く、垂直で正確な透かしは、鉄砲鍛冶であったことが影響していると思えます。布目象嵌は正確でありながら、硬さのない作風が特徴的です。そして、鉄地には、磨地と、酸で荒らしてテクスチャーをつけたガマ肌仕立てがあります。勘四郎の、歪んだ構図と焼き手をかけて鍛え割れが生じても気にしないような即興的な仕事に対して、又七には、鉄地を吟味し、勤直に形を決めて、時間をかけて透かし、最後の最後まで、ていねいな仕事をしていたことが「林・神吉」で紹介されています。そのため、又七は勘四郎に比べて、作品数が少ないことが理解できます。現存している作品のうち、金象嵌銘が11点で、切付銘が3点で、ほとんどが無銘です。

二代 林重光
重光は、寛文7年(1667)に生まれ、延享元年(1444)に78歳で没しています。又七の54歳の子とされていることから、優秀な弟子に跡を継がせるという、江戸時代の習慣からすれば、養子ということもあり得ます。細川家に五人扶持切米十五石で抱えられています。製作期間は、元禄から享保年間ということなり、芸術の世界では、武家文化から町人文化に移っていった時代でもあります。この時代の流行は磨地ですが、重光の作風には、初代勘四郎のような焼き手仕立ての作品が多く見られます。又七が正確で隙のないものを追求したこととは違い、やや歪みのある、味わい深い作風です。その作品の多くは無銘で、在銘は稀です。そして、「享保の改革」による士風の振興により、寛永の武家諸法度で刀剣の長さが決められていましたが、それも緩和され、長い刀や大きな鐔も流行したため、重光には大形の鐔が多く、質素倹約を目指した時代の影響で、象嵌のある作品は少ないです。


三代 林藤八
藤八は、享保8年(1723)に生まれ、重吉や房吉と名乗り、寛政3年(1791)に69歳で没しています。重光の56歳の子となるわけですから、優秀な弟子で、養子ということもあり得ます。重光と同様に、細川家に五人扶持切米十五石で抱えられています。重光の享保の頃とは違い、藤八の製作期間は田沼時代が中心で、各地で洪水や飢饉があり、関東では農民の大一揆があったりして、不穏な時代です。同世代の金工に、一宮長常、津尋甫、柳川直光、大森英秀や濱野矩随などがいます。藤八の作風は、祖父又七に通ずるような雰囲気ですが、透かし際に肉を持ち、すべてが一貫して謹直な仕立ての作品です。鉄の色や艶も一定しています。重光のように、焼き手を加えたものは見当たりません。そして、ほとんどの象嵌が桂菱です。「藤八は又七に規範をとって林の作風を樹立した作者であり、その作風は五代又平、神吉寿平、深信や楽寿に引き継がれていく」ということが、『林・神吉』に書かれています。長大な刀を指さなくなった時代のせいか、やや小ぶりです。無銘が基本であり、藤八在銘の鐔が現存1点のみと、若銘の「房吉」が数点残されています。

四代 林平蔵
平蔵は延享元年(1744)に生まれ、重次と名乗り、天明4年(1784)に41歳で没しています。「重光が又七の54歳の時の子であり、藤八も重光の56歳のときの子であることから、林家は西垣や志水と比べて世代交代が遅い。」と『林・神吉』に書かれています。平蔵は藤八が61歳の時に没していることから、代替わりをしてすぐに亡くなったのかもしれません。「肥後金工大鑑」に「林重次 行年八十七歳作之」という銘のある鐔が所載されていますが、重次は41歳で亡くなっているため、残念ながら、この鐔の銘はありえないことになります。
五代 林又平
又平は明和7年(1770)に生まれ、重久、重之、重勝や重房と名乗り、文政6年(1823)に54歳で没しています。四代重次(平蔵)の26歳のときの子であり、重次が亡くなった時、又平はまだ14歳でした。そのため、家督を継ぐことに苦労したことがわかります。父は「三代藤八は藩主の命令にしたがって神吉寿平に林の技法を相伝しているが、想像するに、後に五代となる又平が明和7年生まれて、当時まだ14歳であったので、林の技法が廃れてしまうのを恐れたためであろう。」と「林・神吉」に書いています。又平は製作期間が長いため、林の伝統が神吉家に移ったことから、奮闘して多くの素晴らしい作品を残したことが感じられます。作風は三代藤八のようで、毛彫はやや太めです。父の「林・神吉」を著す研究過程で、残された在銘の鐔から刻印が判明し、それをもとに多くの作品を発見することができたそうです。その刻印は、茎穴の上に3つ下に5つの四角い鏨で打たれたものです。作品には、「林十代目」という添銘も多くあります。


結びに
難波小道具研究会でのレクチャーは「肥後金工の魅力」を伊藤満が一気に解説していましたが、ブログでは、肥後四主流を一つずつ解釈して、お伝えしたいと思います。今回は「林家」をご紹介しました。林家は鉄砲鍛冶のルーツがあります。謹直で品格を感じる又七の作品は、同時代の初代勘四郎の即興性に富んだ作風とは対照的です。二代重光は又七に比べると、やや歪みのある、味わい深い作品を作りました。又七に通ずる雰囲気の作風の三代藤八は、林家の作風を確立し、その技法を神吉正忠に伝授しました。又平は林家の伝統が神吉に移った後も奮闘を重ね、数多くの優れた作品を残しています。このように林家の各代は、それぞれに独自の世界観を持った作品を生み出しました。
次回は「肥後金工の魅力シリーズ④−2「神吉家」をお届けします。「鐔のプチ入札鑑定」3点も掲載します。Until then Stay tosogu & sword minded : )
参考:
「細川忠利 ポスト戦国世代の国づくり」著者:稲葉継陽
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