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肥後金工の魅力② 志水家―浪華小道具研究会でのレクチャーより

更新日:2025年12月22日


大阪の浪華小道具研究会にて、伊藤満による肥後金工をテーマとしたレクチャーが生國魂神社で行われました。今回のブログは①平田家に続き、「肥後金工の魅力シリーズ②―志水家」です。志水に絞ってわかりやすくご紹介します。


肥後四主流の美意識や特徴をシリーズ①平田・②志水・③西垣・④林・神吉という流れで、各作家の特徴に迫りたいと思います。4日間お届けします。④の最終章に、レクレチャーで行われた鐔のプチ入札鑑定を用意しています。ぜひゲーム感覚でトライしてみてください


浪華小道具研究会


肥後金工の魅力


肥後の四主流は個性的です。師弟の関係であったり、同じ地方であったりすると、結果的に作風が似てしまうことがありますが、肥後金工の作品は、芸術的で、それぞれにスタイルがあり、個性豊かなものを残しています。その芸術には、武家文化の哲学があり、精緻なものから、モダンアートのようなアブストラクトな作風まで幅広くあります。肥後金工の各書籍で紹介されていますが、神吉家、志水家、平田家、細川家や松井家などに残された文書から各流派の歴史が比較的はっきりしています。嬉しいことに、肥後金工の作品は数が多く、蒐集に適しています。金具や拵まで楽しめる幅が広いところも魅力的です。




 


志水家


肥後金工には平田・志水・西垣・林の四主流があります。この四流派のうち、志水と西垣は平田彦三の門人です。肥後入国のとき、細川三斎に従って八代に住んでいましたが、三斎が没した後は、平田家と西垣家は熊本に移住しています。八代に残ったのは、志水家のみです。伊藤満著書「平田・志水」に、松井文庫にある寛政元年に書かれた「御町会所古記之無書抜 御巡見様御尋之御答」に、種々の職業を答えたところに「白金師 壹人」とあり、それは志水甚吾であると書かれています。そして、「八代城郭図」の袋町角に「志水銀太」の名があり、それは、平田彦三が三斎から拝領した「八代袋町東角屋敷口二十間八十九門三尺」と同じ所だそうです。父が  本を書くにあたって、八代を訪れていた30年前には、熊本県八代市袋町に志水仁兵衛の子孫が住んで居られて、お話しを聞くことができたそうです。なんと住所は江戸時代から変わっていませんでした。今年、私も家族と友人と一緒に、その場所を訪ねることができました。今では、子孫の方は引っ越されていて、「志水ビル」だったところが、「高橋ビル」と変わっていましたが、平田彦三や志水仁兵衛が居たということを感じることができました。この地で、五代茂永まで金工の仕事をしていたと思うと、わくわくします。そこから、約100m歩いたところに、医王寺があります。まだ、このお寺に表は、「寛文十二年壬子年十月十八庚申日」裏には、「志水仁兵衛尉一幸」、「志水三十郎一也」の名前がはっきり見える庚申塔があります。志水家に残された位牌によれば、この「三十郎一也」は仁兵衛の弟であったことがわかり、同じ家に暮らしていたこともわかっています。



八代にある旧志水ビル
旧志水ビル
医王寺
医王寺
医王寺の庚申塔
医王寺の庚申塔
医王寺の庚申塔
仁兵衛と弟 医王寺の庚申塔の裏に彫られた名前 

初代 志水仁兵衛


志水家にある「先祖附」から仁兵衛は一幸と名乗っていたことがわかります。甚五郎とは名乗っていませんでした。平田彦三の甥で、彦三と八代袋町に住んでいました。彦三の没後は、平田二代少三郎が熊本に移住した後も袋町に残り、延宝3年(1675)5月27日に没しています。作風は独特の個性が豊かで、鉄地に銀布目象嵌、真鍮据文や透鐔もあり、色金地のものもまれにあります。すべて無銘です。



志水仁兵衛の鐔


二代 志水甚五郎


志水仁兵衛の実子で、「甚五」としての初代です。元和6年(1620)に生まれ、宝永7年(1710)1月11日に没しています。行年91歳と長生きしました。作風は鉄地や素銅地で、初代の晩年作のようなものや、長丸形土手耳の作風です。銀布目象嵌が多く、真鍮線象嵌は稀で、真鍮据文は今まで見たことがありません。すべて無銘です。



二代志水甚五郎に鐔


三代 志水甚五永次


幼名は吉平。「甚五」としての二代で永次と名乗ります。志水二代の71歳のときの子になるわけですが、養子である可能性が高いです。16歳から21年間、二代西垣勘四郎永久の門人でした。元禄12年(1699)に生まれ、安永6年(1777)行年78歳で没しています。在銘は多く、少なくとも72歳までは、「甚五」と銘を切っています。晩年は「甚吾」と銘を切り、「永次」銘もありますが、ほとんどが無銘の作品です。「甚吾」銘の鐔は茎櫃の上下に責金のための特徴的な丸い穴を開けます。作風は鉄地銀布目象嵌で長丸形の作品が多いのですが、左右に大きな透を開けたもの、真鍮据文の異風なものや、素銅のものもあります。名工の誉れが高く、作品も多く残っています。



志水三代甚吾永次の鐔


四代 志水甚吾


「甚吾」の三代で、志水三代永次の55歳のときの子です。延宝3年(1746)に生まれで、文政6年(1823)7月20日行年78歳で没しています。「八代三代目甚吾作」と銘を切ります。無銘の作品が多くあります。65歳以前は小銘で、それが自身の作と思われ、味わいのある三代のような作風です。それ以降の大振りの銘のものは、五代茂永の代作代銘で近代的な作風になります。鉄地の透鐔が多くなり、素銅のもの稀にあります。



四代志水甚吾の鐔


五代 志水甚吾茂永


「甚吾」の四代で茂永と名乗り、嘉永7年(1854) 5月13日に没しています。「八代甚吾作」「八代甚吾作茂永」と銘を切り、行年銘の入った作品もありますが、無銘の作品も多く残っています。70歳までは茎櫃の上下に独特の丸い穴を開けます。神吉深信と同時代の人で、透鐔、真鍮据文、布目象嵌、色金物から金工物のようなものまで多種多様な作風です。知足亭、一龍斉親利など門人も多くいます。名工であり、当時の肥後金工に与えた影響は大きく、幕末の江戸肥後と言われた熊谷義次も門弟と思われます。



志水五代甚吾茂永の鐔


結びに


難波小道具研究会でのレクチャーは「肥後金工の魅力」を伊藤満が一気に解説していましたが、ブログでは、肥後四主流を一つずつ解釈して、お伝えしたいと思います。今回は「志水家」をご紹介しました。細川三斎から直接指導を受けた唯一の金工平田彦三の甥であり、門人の志水仁兵衛を初代とする志水家は五代まで名工で、多くの作品を作り、肥後金工のなかで最も繁栄したと言えます。それぞれの個性が色濃く表現され、見どころの多い作品を製作しました。彦三は志水仁兵衛と西垣勘四郎の師匠であり、彼らに大きな影響を与えたことを踏まえて、次回は「肥後金工の魅力シリーズ③―西垣家」をお届けします。Until then Stay tosogu & sword minded : )




参考:





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