2025年大刀剣市② 出品 重要刀装具 無銘平田彦三 左右蕨手透 肥後金工大鑑所載
- gallery陽々youyou

- 10月23日
- 読了時間: 5分
前回に続いて、11月1日・2日に開催される大刀剣市に出品する刀剣や刀装具の特集をします。
本記事では、平田彦三こそ、肥後金工の創始者と言っても過言ではないでしょうか。彦三のプチ鑑定ポイントも合わせてご紹介したいと思います。いずれも優れた作家の美意識を伝える逸品です。
平田彦三はどんな人物だったのだろうか?
平田彦三は肥後の金工です。肥後金工は平田・志水・西垣・林と四主流あり、それぞれが個性豊かな作品を残しています。この四主流には、二つの流れがあります。一つは細川家が豊前にあったころからの、細川三斎が重用した平田彦三の流れで、彦三の甥の志水仁兵衛(二代から甚五)と弟子の西垣勘四郎です。もう一つは、細川忠利が肥後に入国したとき以前から、加藤家の工人であったため、浪人をしていた林又七の系統です。
四主流のうち、平田の系統が三つなのですから、彦三は特別な存在です。長屋重名翁が「肥後金工録」の本文で「比作肥後金工第一等と称す」と紹介された林又七は、細川家から20人扶持をもらっていました。それに対し、彦三は知行百石を得ていたのですから、家格は彦三の方が相当上であったことがわかります。彦三が50 歳前後で没した寛永12年(1635)11月9日、又七はまだ22歳であったことなどから考えると。彦三こそ肥後金工の先駆者であり、土台を作り上げた人です
父が書籍を書いた20年前には、熊本市横手にある吉祥寺に、平田家の古い墓跡が残っていたそうです。今年の春に訪れた際には、墓跡を探しているうちに、どしゃぶりの悪天候となってしまい、見つかりませんでした。子孫の方がお墓をまとめたのかもしれません。このようなモダンなものが発見できました。少し残念な気持ちもありますが、ここにしっかりと、明治40年に没した後代「平田彦三」の名前が切られていて、感動というか不思議な気持ちになりました。平田家は熊本に行って貞享3年(1686)に没した少三郎が最後の金工で、養子の三朗兵衛は金銀鑑定の判屋職を受け継ぎ、その後は彦三の名跡は継いではいましたが、金工ではなかったことから、明治40年に没された方も金工の仕事はされていませんでした。


彦三の美意識と感覚
肥後の金工は、武士の美意識、現代に通ずる感覚と高い芸術性で、江戸時代の他の金工とは一線を画した存在です。それは、利休高弟七哲の一人といわれた細川三斎の指導と影響があったからです。三斎は関ヶ原を生き抜いた強い戦国武将という一面だけでなく、室町幕府以来の名家の出身で古今和歌集や有職故実の大家であり、当時の一流の文化人でもありました。桃山文化と利休の茶のどれをも理解できる美的感覚を持ち合わせていた三斎は、刀剣の武家目利きとしても知られ、表道具である刀剣を飾る金具にも、特別な興味を抱いたのは当然のことです。
「肥後金工録」の平田彦三のところでは「別録百石を給う・・・一説に彦三豊前小倉において武家奉公辞退し細川公の特命依り更に金銀鑑定の事を司るともいふ・・・」そもそも彦三の父は佐々木源氏の流れを汲む武士で三斎が丹後に居たころ京都で仕官し、関ヶ原の合戦において、田辺の城を守ったという功績の人で、細川家が豊前に移封されて以降、彦三は半屋職と金工の両方の仕事をしていたそうです。三斎の命で金工をすることになったのです。そのため、彦三がもっとも影響を受けたのは、細川三斎の美意識と感覚です。三斎が存命中の肥後金工は貴重な存在です。
彦三が金工として製作していた時代は元和頃(1615~1624)で、狩野探幽、本阿弥光悦、俵屋宗達、埋忠明寿、後藤六代栄乗、七代顕乗、堀川国広、越前康継、肥前忠吉、南紀重国などの才能に満ち溢れた名人が各業界で切磋琢磨していた頃でした。
そんな中、彦三の個性とは、この鐔からも伺える高尚で教養があり、味わいの深いもので、しかも気品があり、蕨手や全体の形を見ても、人間的な温かみや大きさを感じます。特に色彩感覚も豊かで、桃山時代の華やかな文化を象徴していることが感じられます。







プチ鑑定ポイント♡
平田彦三の作品に銘があるものは、この世に一点のみです。それは、鉄地の「三光の図」の鉄鐔で、銘は「ひこ 彦三」と切られています。お問い合わせで、「これには銘が無いのか・・・。」と言われることがありますが、彦三の鐔は無銘の作品が一般的ですので、ご安心ください。あれば、危険ということです。それから、この鐔にも見られる独特な小田原覆輪について、「平田・志水」の著者伊藤満は、「肥後金工大鑑」には、真鍮地の鐔には真鍮覆輪、山金地のものには山金覆輪といった風にいわゆる共覆輪が普通であると書かれているのに対し、今まで観た彦三の覆輪のある鐔の全てが、異なった金属の覆輪だったと書いています。そして、古いものでは、銀のみの小田原覆輪は見当たらないそうです。銀の小田原覆輪の鐔は、偽作か明治以降に後から付けられたとも書いています。
結びに
彦三は「わびさび」の美意識で、人の心の奥深いところを揺さぶる作品を作りました。正阿弥風のスタイルを覗かせながら、洗練された、高尚で武家の教養の高い作風は観る者を魅了します。この作品は、彦三の素銅地真鍮覆輪の大ぶりな鐔です。絶妙に腐らしで変化を付けた平地に阿弥陀鑢を施した肉置きは存在感を感じます。そして、「肥後金工大鑑」所載、埼玉の著名な愛刀家松本近太郎氏旧蔵で、一時は刀装具博物館の所蔵品でした。初代彦三の鐔は20点前後で、その中でも最大級の鐔でもあります。ぜひ大刀剣市にお越しいただき、ご覧ください。
次回は「2025年大刀剣市:ギャラリー陽々・出展作品のご紹介③」をお届けいたします。Stay Tosogu & Sword Minded : )
参考文献:
「平田・志水」伊藤満
「肥後金工録」長屋重名
「肥後金工大鑑」佐藤寒山
「第62回 重要刀装具」日本美術刀剣保存協会
最新情報をお届けするニュースレターのご登録はこちら↓です。



コメント