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2025年大刀剣市③ 出品 重要刀装具 銘:林重光 雲出八橋透鐔

前回に続いて、11月1日・2日に開催される大刀剣市に出品する刀剣や刀装具の特集をします。

 

本記事では、希少な林重光在銘の鐔を紹介したいと思います。名工の誉高い林又七の二代目として活躍した、優れた作家の美意識を伝える逸品です。

 


林重光はどんな人物だったのだろうか?


前回のブログにも紹介しましたように、肥後金工は平田・志水・西垣・林と四主流あり、それぞれが、心にぐっと来る個性豊かな作品を残しています。この四主流には、二つの流れがあります。一つは細川家が豊前にあったころからの、細川三斎が重用した平田彦三の流れで、彦三の甥の志水仁兵衛(二代から甚五)と弟子の西垣勘四郎です。もう一つは、細川忠利が肥後に入国したとき以前から、加藤家の工人であったため、浪人をしていた林又七の系統です。

 

最近の稲葉継陽氏の著書「細川忠利」によれば、細川家は豊前小倉から肥後熊本に移封された当時、忠利は熊本に、細川三斎が肥後の八代に住んでいたわけですが、関係が悪く、一切の交流がなかったことや、家臣は八代の侍とは交流しないという誓書を忠利に出していたということです。これによって、「林・神吉」の著者伊藤満によると、今までの説だった、「又七は三斎の指導と影響を受けた」ということは全くなかったことが判明したそうです。恐らく、三斎と又七は全く面識すらなかったと思われます。そう思えば、平田彦三、志水仁兵衛と西垣勘四郎には共通点というか、一つの流れがあるのですが、又七は全く違った作風であることも納得できます。

 

「林・神吉」に、系図が整理されて、書かれています。それによると、又七は、慶長18年(1613)生れ、元禄12年(1699)87歳で没していまして、重光は 寛文7年(1667)生れ、延享元年(1744)78歳に没していますので、重光は又七の54歳のときの子どもということになります。当時としてはかなり晩年の子ということですが、優秀な弟子に跡を継がせるという、江戸時代の風習からすれば、これは、養子であった可能性が高いとのことです。

 

昨年、念願叶って肥後金工を巡る旅をしました。その際に、熊本の春日町を訪ねました。ここで林家が仕事をしていたそうです。熊本駅の裏手にあたる地域で、小高い山に囲まれた所でした。閑静な住宅街で、残念ながら、現在は林家のあった場所は全くわかりません。熊本城からかなり離れたところで仕事をしていたことがわかり興味深かったです。


熊本市春日町にあった林重光が仕事をしていたところ。
熊本市春日町


重光の美意識と作風


重光は、又七が正確で隙のないものを作ったこととは違い、やや歪みのある、味わい深い作品が多く見られます。在銘のものは、多分、20点前後はあると思われ、それを観察すると、又七の作品のような正確な透かしは、10%くらいで、残りの90%はやや歪みのある、「わびさび」を具現化したような作品です。鉄も、又七のように、ピンと張り詰めたものよりは、ややさっくりとして、西垣勘四郎に近いものも見られます。これは、又七の作風を墨守することなく、自分の個性を追求し、自分ならではのオリジナリティーを模索していて、辿り着いた結果ではないでしょうか。

 

また、重光の鐔には大きいものが多いのには訳があります。同時代の長州鐔も大きなものが観られます。この時代は、8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」のころで、質素倹約と効率化を重視したと同時に、学問と武道の奨励をした時代でした。当時、刀鍛冶が衰退しているので、刀剣のコンクールを実施し、それを勝ち抜いた、薩摩の一平安代と主水正正清が小浜御殿で腕前を披露して、葵紋をいただいたのは皆さん、ご存知の通りです。刀剣は武家諸法度で長さが決められていたのですが、これも緩和されたので、長い刀と大きな鐔も流行しました。

 

この鐔は、やや大きめで、菊形と呼ばれる木瓜形の中に、菖蒲八橋を透かしています。やや薄手で、平地はフラット気味であり、小柄と笄穴の輪郭線が切羽台に刺さるようになっているのも又七のような造り込みです。しかし、その形は偶数ではなく、13に分かれていて、独創的で例を見ないものです。また、平地は槌目で仕上げた後、焼き手をかけていて、働きがあり、重光独特の個性が現れています。切羽台の表に「林」、裏側に「重光」の、特徴的な銘があり、保存状態も上々です。



重要刀装具林重光の鐔

重要刀装具肥後金工林重光の鐔

重要刀装具肥後金工林重光の鐔と伊勢物語

NBTHK69回重要刀装具林重光

69回重要刀装具林重光NBTHK


菖蒲八橋のデザインはどこから?


菖蒲八橋のデザインはどこからか知っていますか?

古い鐔では京透などにも多く見られます。このデザインは在原業平のことを書いた「伊勢物語」に登場してくる逸話からです。業平一向の東下り、つまり、京都から東国、今の東京あたりに旅行する物語です。場面は、二条后藤原高子(たかいこ)との恋愛が原因で、都を離れ東国へ下る在原業平一行が、三河国八橋(愛知県知立市あたり)という所で美しく咲く燕子(かきつばた)を見ます。そして、ある人が、“かきつばた”という五文字を句の先頭において、旅の心を歌に詠めと言って、詠まれた歌がこちらです。

「唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ」

 

恋愛の物語は、武士にとっては縁のないことのように思われますが、「伊勢物語」を知っている、あるいは、恋愛の情がわかるということが武士の重要な教養であったことがわかって微笑ましいです。


伊勢物語絵巻
伊勢物語絵巻 京都国立博物館 館蔵品データベース

プチ鑑定ポイント


林重光の在銘は、又七の15点(他に若銘が1点)、藤八の1点(若銘が数点)に比べると、多く残されていますので、それから判断すると、又七のようにシャープな透かしは少なく、正確な透かしのものでも、3代の藤八のような、透かし際が丸く肉を持つものが多いです。全体の形も歪んだものが多く、左右均等で正確な透かしの鐔は大変少ないです。また、象嵌が施された鐔の在銘が見当たらず、どれが重光の象嵌であるかは想像する以外にはないのですが、作風と同じく、又七や藤八よりは、やや味わいのあるものではないでしょうか。



結びに


希少な在銘であり、大きく、見所の多い重光の鐔を、ぜひ大刀剣市にお越しいただき、ご覧ください。次回「2025年大刀剣市:ギャラリー陽々・出展作品のご紹介④」をお届けいたします。Stay Tosogu & Sword Minded : )



参考文献:

「林・神吉」伊藤満 



「肥後金工録」長屋重名

「細川忠利 ポスト戦国世代の国づくり」稲葉継陽

「第69回重要刀装具図譜」日本美術刀剣保存協会


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