肥後金工の魅力④-2 神吉家 ― 浪華小道具研究会でのレクチャーより
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- 1月15日
- 読了時間: 7分
大阪の浪華小道具研究会にて、伊藤満による肥後金工をテーマとしたレクチャーが生國魂神社で行われました。今回のブログは①平田家 ②志水 ③西垣 ④-1林家に続き、「肥後金工の魅力シリーズ④-2―神吉家」です。
肥後四主流の美意識や特徴をシリーズ①平田・②志水・③西垣・④林・神吉という流れで、各作家の特徴に迫るブログシリーズです。④林・神吉では、情報量が多すぎてしまうので、④-1は林家、④-2は神吉家としてお届けしています。④-2:神吉家は最終章になります。巻末に、鐔のプチ入札鑑定を3点掲載します。ぜひゲーム感覚で、トライしてみてください♡
肥後金工の魅力
肥後金工の作品は、心惹かれる造形で雰囲気があります。「何となく好きで手にした作品が、実は肥後だった。」ということがあるかもしれません。それを、「誰の作品なのだろうか?」と考えることも楽しみの一つですね。肥後の四主流(平田・志水・西垣・林)は、それぞれが、とにかく個性的です。
・師弟の関係であったり、同じ地方であったりすると、結果的に作風が似てしまうことがありますが、肥後金工の作品は、芸術的で、それぞれにスタイルがあり、個性豊かなものを残しています。
・武家文化の哲学があり、精緻なものから、モダンアートのようなアブストラクトな作風まで幅広くあります。
・神吉家、志水家、平田家、細川家や松井家などに残された文書から各流派の歴史が比較的はっきりしています。
・嬉しいことに、肥後金工の作品は数が多く、蒐集に適しています。
・金具や拵まで楽しめる幅が広いところも魅力的です。

神吉家
『林・神吉』に神吉家のルーツが書かれています。それによると、細川家の文書である「元和七年春ヨリ寛永九年十二月九日迄之間」と書付のある「妙解院殿忠利公御代於豊前小倉 御侍帳並軽輩末々共二」という侍帳の中に、「細工之者諸職人」という項目があり、その筆頭に、「二十石十人扶持 神吉甚右衛門」として登場します。これにより、神吉家が、細川家の小倉時代からの家臣であったことがわかります。肩書きはありませんが、鉄砲鍛冶や刀鍛冶と同列であるので、武器の職人であったことは明確です。「神吉甚右衛門」または、「甚左衛門」以降について、父が神吉家の系図から、まとめているので整理して書きます。
神吉 甚右衛門(甚左衛門)
白粉屋 甚兵衛→九兵衛→善右衛門→神吉寿平忠光
神吉寿平忠光の註に、「鐔細工善七に学ぶ。後、御意に従い林藤八の門人となる。」とあることから、楽寿の取材を元にして書かれた「肥後金工録」に出てくる「寿平正忠」と同一人物であることが明らかです。
神吉寿平正忠→深信→楽寿の順で系図に書かれていて、「肥後金工録」に出てくる楽寿の養子は、楽寿の弟である忠八の子どもであることも判明したそうです。この忠八は明治20年に亡くなっていること、楽寿の下職をしていたと思われることから、作品は確認されていません。そして、その息子の時代となれば、すでに廃刀令以降で作品を作らなかったと思われ、実際の刀装具の製作は楽寿が最後であったものと「林・神吉」に書かれています。
神吉家は熊本市の坪井という地域で仕事をしていたことが知られています。父が「林・神吉」の研究でこの地を訪れた時には、「神吉電気」という看板のある古い建物があったそうです。残念ながら、昨年の春に、私が家族と友人と一緒に、坪井を訪れた際には、もう神吉家の建物はありませんでした。坪井は城下町でしたし、お寺が数多くあります。現在の坪井一丁目に「仁王さん通り」という道があり、その通りに、「神吉電気」の建物があったそうです。その場所のすぐ近くに、「明専寺」という大きなお寺がありましたので、お寺の方に「神吉電気」についてお尋ねしましたが、この近くにあったことも覚えていらっしゃいませんでした。


初代 神吉正忠
正忠は明和3年(1766)に生まれ、寿平と名乗り、文政3年(1820)に55歳で没しています。林四代の平蔵は天明4年(1784)、三代藤八より先に、41歳で亡くなっていることから、藩主の命令で、藤八から正忠が林の技法を相伝しました。それは、「おそらく四代が亡くなってから、神吉家が細川藩主から禄を受ける天明6年までの二年間続いた。」ということが「林・神吉」で紹介されています。その後、正忠の、林風の鐔の製作が始まったわけです。「肥後金工録」に「やや赤味のある鉄地、藤八に似た切羽代の形、やや肉置きがあること、桂菱の象嵌が上手であること」など特徴が書かれています。楽寿が生きていた頃は、神吉家に遺作があったのかもしれませんが、在銘の作品や、深信や楽寿のような刻印があったかどうかはわからないそうです。そのため、作風を知る手がかりは、肥後金工録の記事だけとのことです。正忠の作品は、全て無銘で、今では、藤八や林又平の作品と、区別が付きにくいです。
二代 神吉深信
深信は天明6年(1786)に生まれ、同じく寿平と名乗り、嘉永4年(1851)に66歳で没しています。製作時期は、正忠の亡くなった文政3年(1820)以降で、天保を中心とした幕末の機運の高まった時代です。この時代の金工に、名工後藤一乗、田中清寿、後藤家十六代の光晃、二代濱野矩随、川原林秀興などがいます。「肥後金工録」に「寿平深信 此の代を神吉の父と呼ぶ 理由前代に同じ。作行総て父に似たり。しかし力及ばず。鐔おもに透かしを作り在銘もの多し。肉置き象嵌ともに総て家法株守に過ぎず。他の奇なし略す」と寂しい書かれ方をしています。深信の作品からは、清々しい品格、はっきりとした個性や優れた感覚が伺えます。「肥後金工録」に書いてあるような凡工には、製作できない作品ばかりです。八代には志水五代茂永という名工の存在もあり、切磋琢磨して優れた作品を製作しようと努力していたに違いありません。
深信からは、林家とは違ったややマットで灰色っぽい鉄の錆付が見られるようになります。幕末のニーズで大ぶりな鐔が多くあり、唐草や枯木象嵌は、楽寿より上手です。深信は、謹直で整った仕事をしています。そして、在銘の作品も多く残っています。銘を切るのは、注文主からの依頼など、何か特別な事情によるもので、通常は無銘です。茎穴の上に4つ下に7つ、ごく稀に、上4つ下9つの小さな鏨の特徴的な刻印を残しています。


三代 神吉楽寿
楽寿は文化14年(1817)に生まれ、初二代と同じく寿平と名乗り、明治17年(1884)に68歳で没しています。その2年後、明治19年(1886)に長屋重名翁は楽寿に取材した内容を元に、「肥後金工禄」を自筆で書きあげています。「林・神吉」にその内容が原文で掲載されています。一部を現代語にすると、「私は以前、熊本に滞在していたことがある。その折、私は暇を得て、楽寿のもとで金工鑑定の初歩を大変楽しく学ばせてもらった。今回この書を編むことができたのも、まさに楽寿のおかげである。楽寿は、口を開けば「又七、又七」と何度も口にし、その作風や考え方について、繰り返し丁寧に説明してくれた。人当たりは、非常に親しみやすく、相手がまるで金工の門弟であるかのような感じにさせる人物であった。また一方で、大変謙虚でもあり、先輩諸家の作品を見るたびに、自分はまだ力が及ばないのだと自らを戒め、慎ましく語っていた・・・。」とあります。
楽寿の作風は深信と同じようですが、下地に鑢目が残るものも多く、やや荒っぽい仕事の鐔も見受けます。唐草の布目象嵌や枯木象嵌が多くあります。楽寿の枯木象嵌には、本象嵌と布目象嵌の両方があります。象嵌の種類や、その技術に関しては、ぜひ「林・神吉」の49〜50ページを見ていただきたいです。そのページには林、神吉、西垣などの象嵌の比較をしています。楽寿は又七を崇拝していたようですが、実際の作品を150%に拡大してみると、楽寿よりも深信の技量に圧倒されます。長屋重名翁は、楽寿を親しみやすく、謙虚な人であると書いています。それが本当だとすると、深信は楽寿に対して、厳しい師匠というだけではなく、とても厳しい父だったのかもしれません。「肥後金工録」で、深信は過少評価されているのは、楽寿が深信について良いことを述べなかったからでしょうか。親子の間に何らかの葛藤があったのだと想像がつきます。楽寿も特徴的な刻印を異なったサイズの鏨で、茎穴の上に2つ、下に3つ打ちます。楽寿にはオリジナルの図があり、素銅で金工のような仕事もあります。

鐔のプチ入札鑑定♡
ここからは、鐔3点の入札鑑定になります。ぜひトライしてみてください。
1.

2.

3.

結びに
難波小道具研究会でのレクチャーは「肥後金工の魅力」を伊藤満が一気に解説しました。ブログでは、肥後四主流を一つずつ解釈して、4シリーズでお届けしていました。今回は、その最終章として「神吉家」をご紹介しました。初代正忠は、三代藤八から林の技法を相伝しました。その林家の作風や技法を生かし、深信は格調の高い、林とは異なった個性溢れる地鉄や作風を創始しました。楽寿は幕末からの製作で、廃刀令に合い、厳しい時代に遭遇していましたが、オリジナリティーのある名作を残しました。
次回は「鐔のプチ入札鑑定3点の答えと解説」をお届けします。Until then Stay tosogu & sword minded : )
参考:
肥後金工録 著者:長屋重名
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