竹生島を訪ねて ─ 刀装具に見る「波に兎」の意匠
- gallery陽々youyou

- 11月27日
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彦根城に続き、刀装具に関連する歴史的な名称を訪れる、侍の旅をお届けします。今回の旅は侍が大切にした”静けさの美”に秘められた謎を解きに、琵琶湖の北に浮かぶ神秘的な竹生島を訪ねました。戦国武将の竹生島信仰に触れながら、刀装具の図柄「竹生島」や、古正阿弥の鐔に宿る精神性や美意識を探索します。

竹生島崇拝はいつから始まったのか?
竹生島宝厳寺の寺伝によると、竹生島は神亀元年(724)に聖武天皇の勅願により、行基が開基したそうです。このことを確かめる術はありませんが、聖武天皇と竹生島の関わりを示す伝承は島とその周辺地域に残っています。2018年国宝指定となった鎌倉から江戸時代に渡って書かれた「菅浦文書」の「菅浦与大浦下庄堺絵図」や、室町時代後期に描かれた「竹生島祭礼図」(東京国立博物館所蔵)には、島内の「宮崎」と呼ばれる先端付近から鳥居をくぐるようにして拝殿し、弁天堂へ向かう参道があることがわかります。その脇には、「聖武天皇供養塔」と思われる石塔が立っています。現在では、宮崎は岩石が切り立ち、そちらから拝殿することはできない地形に変化しています。



島内には、聖武天皇が行幸する際に作った道という「御幸坂」があります。実際に、聖武天皇が竹生島へ行幸したという公式な記録は残されていませんが、竹生島では、奈良時代からの記憶として、話しつがれていて、江戸時代の資料によれば、聖武天皇は島に二回訪れ、神亀二年(725)3月3日「豊饒会」(ほうじょうえ)と、同年四年(727)6月15日に「金翅鳥」(こんじちょうおう)の祭りを催していたそうです。豊饒会こそが、「蓮華会」(れんげえ)の異名とされていることから、竹生島の祭礼行事と聖武天皇には、深い関わりがあります。
弁才天信仰と蓮華会― 浅井氏との関係
竹生島宝厳寺には、千手観音と弁才天がおられます。いずれも、重要な仏ではありますが、歴史的に竹生島信仰の象徴となるのは、弁才天信仰で、仏教経典に説かれた「金光明最勝王経」という仏だそうです。蓮華会とは、竹生島信仰の根幹となる祭礼行事です。それは、「近江国浅井郡に居住するか、浅井郡出身で竹生島の信仰者の中から、籤で決められた二人の頭役と呼ばれる人が竹生島から御正躰(みしょたい)を迎えた上で、各自が弁才天像を新しく造り、その像を竹生島に奉納し、五穀豊穣を祈願する雨乞い行事」だそうです。東京国立博物館の「竹生島祭礼図」を見ると、とても華麗で豪華な祭礼行事であることが想像できます。

浅井亮政の時代以前から、浅井氏は浅井郡の民として竹生島に対して厚い信仰心を持っていたことが法厳寺に残された書状から理解することができます。古来より、浅井郡に居住する民はすべて竹生島の氏子とされていたことから、浅井氏も氏子として竹生島弁才天を崇拝していたそうです。特に、浅井久政と母、寿松の信仰心は強く永禄九年(1566)に久政が蓮華会の頭役、翌年には、寿松が頭役を受けていたことが、「蓮華会頭役門文録」に記載されていることが、特別展の図録「戦国武将の竹生島信仰」に書かれています。このときにそれぞれが、奉納した弁才天像が今も竹生島に伝わっています。

また、浅井郡三川村(現在の長浜市三川町)出身の田中吉政も、関ヶ原合戦で石田三成を捕縛して手柄をたてた後、慶長九年(1604)5月12日に夫婦で蓮華会の頭役を受けたい旨を竹生島に伝えた書状を送っています。同じ書状に、吉政は、すでに慶長五年(1600)に竹生島を参詣し、神仏に立願した旨が書かれているそうです。この書状も宝厳寺が所蔵しています。これを考えると、吉政も浅井郡の民として、竹生島弁才天信仰を心に持ち続けていたのかもしれません。この田中吉政は後に、三河の岡崎城主になり、鐔工の信家を抱えることになるのです。

”静けさの美” に秘められた「兔と波の図」の謎
そもそも、この旅の発端になったのは、「竹生島」と呼ばれる刀装具の図柄です。典型的な例は、月明かりに、兔が波の上を走るような図です。私が拝見したなかで、特に心に残っていたのは、五代志水甚吾茂永の鐔で、表は波に兔が布目象嵌されていて、裏は北斗七星でした。見るからに、「竹生島」です。とは言っても、なぜこの図が「竹生島」なのでしょうか?その答えは、謡曲「竹生島」にありました。
あらすじは、醍醐天皇の臣下が、竹生島の弁才天の社を参拝しようと、琵琶湖に来ると、湖畔で若い女性と老いた漁師と出会い、便乗して竹生島に向かいます。美しい湖春の景色を眺めているうちに、竹生島へ着きました。そこで、臣下は、女性に竹生島は女人禁制ではないのかと問いかけると、二人は、竹生島は女体の弁才天を祀り、女性をお隔てにならないと、島の由来を臣下に話し、その後、若い女性は自分が人間ではないと告げ、社の御殿に入りました。老いた漁師は湖の主であると言い、波間へ消えていきました。謡曲は続きます。

この詞章の中に、「緑樹 影沈んで 魚 木に登る景色あり 月 海上に浮かんでは 兎も 波を奔(かけ)るか 面白の島の景色や」という部分があります。これこそが、波に兔の図を「竹生島」と呼ぶきっかけになった場面です。「木々の影が深く沈み、その映り込みによって、魚が木に登っているかのように見える。海に浮かぶ月の光は、波を走る兎のように揺れている。この島の風景は、なんて幻想的でおもしろいのだろう。」という意味が込められています。
幻想的な話をイメージすると、古正阿弥 四方兔図鐔が思い浮かびました。鉄地、八つ木瓜形に肉彫で、兔が四方に表現されています。笹野先生が平成五年(1993)に出版された「透鐔」に、「正阿弥の作風は、京と尾張の中間的ということができる。京よりはやや骨太で、尾張よりはやや優形である。そして、動きのある意匠を好んで透かし、正阿弥の独自の作域を確立している。」と述べられています。この鐔のような、優雅な八つ木瓜形は、江戸期に、肥後金工である林や西垣家に引き継がれて発展しています。櫃穴の形状を見ると、細い半月形をしていることから、室町初期の製作であると考えられます。鉄地に宿る揺らぎのような美しさがあります。これも竹生島信仰を象徴した図案なのでしょう。




プチ鑑定ポイント♡
このことを考えると、尾張や京は一般的に丸形であることから、八つ木瓜形で肉彫があるということは、両者ではないということが考えられます。室町時代の尾張透の特徴は、鉄地丸形で中低、角耳小肉で主に左右シンメトリの大胆な透かしで鉄骨の入った槌目仕立てです。透かしは武張った感覚で、骨格がしっかりしています。京透は、薄手の丸耳や角耳小肉、透かしはやや細く、初期の頃には、肉彫の紋を散らした図や、尾張のような左右シンメトリの構成もあります。そのようなデザインと並行して、菖蒲八橋のような優美で絵風な意匠のものになっていきました。正阿弥の特徴は、円対称であること、左右に開けた大きな楕円形の中に図柄を透かすことや六つ木瓜形、八つ木瓜形などの変わった形があることです。また肉彫りがあるのも大きな見どころです。
結びに
湖に浮かぶ小さな島で感じた静寂や祈りの気配は、刀装具の造形に宿る精神性と、どこか深く響き合うものでした。次回は、桃山時代の武士道を色濃く残す「侍の旅③ 関ヶ原」同盟を結んだ大名の生き様と友情から解く、武家文化の美しさと刀装具に秘められた戦国武将の精神性を合わせてお届けします。Stay tosogu & sword minded : )
参考:
「戦国武将の竹生島信仰」竹生島宝厳寺・長浜市長浜城歴史博物館
「能之図 竹生嶋」狩野柳雪 国立能楽堂所蔵 文化デジタルライブラリー 独立行政法人日本芸術文化振興会
「竹生島祭礼図」室町時代 東京国立博物館
「菅浦文書(千二百八十一通)菅浦与大浦下庄堺絵図」文化遺産オンライン 文化庁
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